◇ 寺沢憲重の10のラッキー名言 ◇      
:幸福だから笑うわけではない。 むしろ、笑っているから幸福になれるのだと言いたい。       
:笑いのあるところには活気もある。よく笑う人は不機嫌な顔をした人より長生きする。
:叶えるのが夢だけど、叶わなくても夢は夢さ、泣いて笑ってそれが人生、平凡がいい。
:人生いろ色あらァな、それを頑張って乗り越えたら喜びや楽しみが待ってるんやでぇ。
:人生に於いて全ての壁が、自分を高める壁だと前向きに思える人は壁を超えられる。
:ネガティブフィードバックの時こそ、得難い学びのチャンスそのものなのである。
:大切だと思うのは世に名を博した偉い人や大作家とはなるべく謦咳に接することである。
:たった百人の中の、私という自意識や誇りや自尊心や見栄や保身や奢りや愚かさの孤独。
:他人と比較するのは無意味だ理想の自分と比較せよ。何歳でも自分を変える努力をせよ。
:人生のターニングポイントの決断には。やり始める勇気とあきらめる勇気が必要である。 

2013年07月21日

MEMO:『岡倉天心』 むなしい憧憬 「私の挽歌はかもめに唄わせよ」

東洋では人間は自然の一部なんだ。『岡倉天心』 

日本美術院は明治31年岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持

発展を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、

評議員に横山大観、下村観山がいた。

ここは日本美術院や日本近代美術の先覚者岡倉天心の旧居があったところであり、現在

岡倉天心記念公園となっている。

園内の六角堂には、平櫛田中作の天心坐像が安置されている。

岡倉 天心は文久2年(1862)、越前福井藩岡倉勘右衛門の次男として生まれた。

幼名を角蔵、角三といったが後に覚三と改めた。天心が号である。

東京美術専門学校(後の東京芸大)の創立に尽くし、横山大観や菱田春草らが育っている。

『日本美術院院歌』 天心作詞の院歌を大観が碑にして建てている。


まじめな精神面のみでなく、心情のふれあう酒道の方でも相当に鍛えられたことが

楽しげに述べられているのだが、その中に、岡倉天心作歌、横山大観スピーカー

という珍しい「日本美術院の歌」というものがあって、よく歌ったという。

その歌詞がいい。

  谷中鶯 初音の血に染む紅梅花

    堂々男子は死んでもよい

  奇骨侠骨 開落栄枯は何のその

    堂々男子は死んでもよい

というもの。谷中、初音は、学校界隈をさす。これは何でも明治31、2年日本美術院が

創立された頃のこと、王子の料亭で、一夜岡倉天心が即興的に作ったもので、大観は、

これを歌うと、妙な気持ちになったと述懐している。

武道欄に料亭での作歌とは、ふさわしくないといわれそうだが、当時の男子たるものの

気概を知るにはいいだろう。

大観は言う―。後半の「堂々男子は死んでもよい」というところに来ると、人生意気に感じて、

本当に死んでもいいという気持ちになるから妙なものです。

同気相求むるの士が集まって酒でも飲んでいると、自然とこの歌が出て来て、私なども

よく歌ったものです。  (横山大観『大観画談』昭和26年初版、講談社より参考)

晩年の天心は、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871−1935)と出会います。

以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。

    戒告

   私がもし死んだら

   悲しみの鐘はならすな 旗は立てるな

   人里遠い岸辺 つもる松葉の下深く

   ひっそりと埋めてくれ

        ーあの人の詩を胸において

   私の挽歌は鴎(かもめ)らにうたわせよ

   もし碑を立てねばならぬとなら

   いささかの水仙と

   たぐいまれなる芳香を放つ一本の梅を

   さいわいにしてはるか遠い日

   海もほのかに白む一夜

   甘美な月の光を踏む

   あの人の足音の聞こえることもあろう。

        英詩   大岡 信訳


posted by てらけん at 20:48| Comment(0) | マスターの日記 | 更新情報をチェックする
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